【11名の新理事が就任へ】
日本初の女子サッカープロリーグとして、今年9月に開幕を迎えるWEリーグ(日本女子プロサッカーリーグ)。
2月5日、WEリーグは同月1日付で新たに11名の理事が就任することを発表した。内訳は女性7名、男性4名。元日本代表でJリーグ特任理事の播戸竜二氏や、フットボール先進国・スペインの男女トップリーグで強化、育成、普及に携わった佐伯夕利子氏、元女子日本代表で帝京平成大学女子サッカー部監督を務める矢野喬子氏をはじめ、広告代理店の役員やクラブの代表、弁護士など、その顔ぶれは多岐にわたる。そして、その中に、日本女子サッカーの発展に現場から力を尽くしてきた一人の女性の名前があった。
小林美由紀さんは、筑波大学時代に、「筑波大学女子サッカークラブ」を創設。それは茨城県初の女子チームとなった。その後、アメリカ留学で世界一の女子サッカー大国の文化に触れ、帰国後は関東大学女子サッカーリーグを設立。大学の全国大会を始めるなど、大学女子サッカー発展の礎を築いた。
また、アメリカ留学で培った語学力や、様々なボランティア活動を通して築いた人脈を生かして、FIFA(国際サッカー連盟)ボランティアやAFC(アジアサッカー連盟)マッチコミッショナー(公式戦の会場における運営の最終判断を行う総責任者)、日本女子代表主務、ジェフユナイテッド市原・千葉レディースのコーチ・マネージャーなど、多彩なキャリアを歩んできた。親しみやすく、オープンな人柄で様々な人々を繋ぎ、多くの選手のキャリアにも影響を与えてきた。
「道がなければ、作ればいい」
小林さんの生き方はこの言葉に象徴される。
サッカーをする女子選手がほとんどいなかった時代に、好きなサッカーを続けるために自ら道を作り、競技の普及や強化にも貢献してきた。小林さんが辿ってきたキャリアには、好きなことや理想を形にするために積み重ねた苦労と、好きなことを仕事にできる喜びが秘められている。
【サッカー部創設と、女子サッカー大国の刺激】
神奈川県逗子市で3人きょうだいの長女として生まれ育った小林さんは、高校卒業後に実家を離れ、茨城県の筑波大学に進学した。この決断が、その後のキャリアを大きく左右する。
「幼少期から英語の先生になりたくて、外国語を学べる大学を探していました。ただ、私は長女で両親と衝突することも多かったので、親元を離れたところから大学に通いたいと考えていたんです。そこで、英語の教員免許が取れて、しかも全寮制の筑波大に惹かれました。英語と数学以外の科目が苦手で、心理学にも興味があったので、最終的に筑波大学の人間学類という学部を受験しました」
入学後、小林さんをサッカーの世界へと導いたのは、筑波大の寮で隣の部屋だった八鍬(やくわ)美由紀さん(元国体カヌー選手/現カヌーポロ指導者)だ。埼玉県出身の八鍬さんは高校時代に趣味でボールを蹴った経験があり、大学で本格的にサッカーをやりたいと考え、小林さんを誘った。「中学、高校とバスケをやっていて、運動神経はそこまで良くないけれど何かスポーツをやりたいと思っていた」という小林さんは、この提案を受け入れた。
だが、筑波大には女子サッカー部がなかった。「女がサッカーをやるの?」と言われたが、2人はそんな声に怯むどころかむしろ奮い立ち、「筑波大学女子サッカークラブ」を結成。だが、メンバーがいなくては始まらない。男子のサッカー同好会に参加させてもらいながら、少しずつメンバーを増やしていこうと決めた。
筑波大はスポーツが強いことでも有名で、体育学部を選ぶ多くの学生は、入学時に競技を決めているのだ。勧誘は困難を極めたが、医学部、工学部、文学部、農学部などからサッカー未経験者を集め、大学4年生の時に11人揃った。
「茨城県で最初の女子サッカーチームだったので、『筑波大に女子サッカーチームができた』と新聞に取り上げられたのですが、蹴球部の先生には『いい迷惑だ』と言われましたね。練習をするグラウンドもなかったので、本格的な活動は難しかったのですが、初めて11人のジャージが揃った時は嬉しくて飲みに行ったのを覚えています(笑)。対戦相手がいなかったので、県内のママさんチームやシニアの男性チームと試合をしていました」
茨城県内には女子チームが1つしかなかったため、全国大会の関東予選に茨城代表として出場できたが、最初の公式戦の相手は、都リーグ1部(当時)の強豪、読売サッカークラブ女子・ベレーザ(現日テレ・東京ヴェルディベレーザ)。2桁失点で敗れている。
小林さんは4年生の夏に、交換留学制度を利用してニューヨーク州立大学に1年間留学。その時に経験したアメリカの女子サッカー文化に衝撃を受けている。日本ではまだ、「サッカーは男性のスポーツ」という価値観が根強かった1980年代当時、アメリカではすでに多くの大学が女子サッカー部を持ち、女性の専任コーチも当たり前のようにいたという。試合会場まではバスの送迎付きで、食事も無料。試合当日にユニフォームを受け取り、試合後に返せば洗ってくれた。小林さんがプレーしたのはトップリーグから数えて3部のチームだったが、当時の3部でさえ、その環境がスタンダードだったのだ。カルチャーショックの大きさは想像にあまりある。一方で、その光景は、小林さんが日頃から感じていた違和感が間違っていないことの証明でもあった。
「実家にいた時に、母親から『女性なんだから家事をしなさい』と言われるのが嫌で、いつも『(きょうだいの)年上だから、という理由ならやるけど、女だから、という理由ならやらない』と答えていたんですよ。それで、男女の性役割にはもともと興味があったので、大学で心理学も勉強したいと思っていたんです。それに加えて、サッカーをやったことでスイッチが入ってしまって(笑)。4年生の卒論は、『日米の女性アスリートの性役割』をテーマにしました」
【関東大学女子サッカーリーグとつくばFCを創設】
アメリカでの体験から「もっとサッカーを続けたい」と思った小林さんは、筑波大の大学院に進んでスポーツ心理学を専攻。女子サッカークラブの共同創設者である八鍬さんも、同じ思いから大学院へ。小林さんは、「2人ともサッカーを続けたくて、学生の時間を伸ばすために大学院に入ったんです」と、笑いながら述懐する。
茨城初の女子サッカークラブ発足は、近隣の大学にも女子サッカー部を作る動きを促し、高校年代にも波及した。関東圏で女子サッカーの裾野が広がり、それぞれが対戦相手を求める声が大きくなっていた。そこで、2人はまた行動を起こす。
「関西方面で大学の大会を作ろうとする動きがあったので、一緒に学生主体の全国大会を開催しました。当時も『女がサッカーなんて』という空気はありましたね。『全日本』 という大会名はJFAの許可が必要だったのですが、大会を継続していく中で5年目に認められて、今も続くインカレ(全日本大学女子サッカー選手権大会)になりました。関東ではリーグ戦を開催するために、1986年に筑波を含めた6つの大学で関東大学女子サッカー連盟を作りました。私と八鍬も試合に出たかったので、『大学を卒業して2年までは出られる』というルールを勝手に作りまして(笑)。私は英語の非常勤講師をして生活費を稼ぎながら、2年間サッカーに明け暮れましたね」
この関東大学女子サッカー連盟が主催する関東大学女子サッカーリーグ(通称:関カレ)は年々発展を遂げ、創設から34年目の現在は、1部から3部まで計32チームが加盟するリーグへと発展を遂げた。そして、1992年からJFAが主催するようになったインカレは、大学女子サッカーの頂点を決める由緒ある大会となった。
小林さんはその後、英語をより専門的に学ぶため、大学院を休学して再渡米を決意。奨学金をもらってアラバマ州立オーバーン大学大学院で2年間学び、スポーツ心理学の修士号を取得した。アラバマは南部で保守的な考え方が根強く、最初に留学したニューヨークとは違ったが、この時も女子サッカーチームでプレーを楽しむことができたという。
帰国後、再び大学院に戻って筑波大女子サッカーチームのコーチをしながら、自身は東京のチームでプレーを続けた。だが、サッカーをする女の子たちの中学年代の受け皿がないことを知り、当時親しくしていた男性コーチと一緒に、1993年に「つくばFC」という女子チームを創設する。
「地元のローカル誌に『サッカーをやりましょう』と広告を出して、月謝も集めず、無料のグラウンドを借りながら私が教えたりしていたのですが…ボランティアだけではさすがに続けていくのは難しいと思っていました。その後は筑波大OBで、現在代表の石川慎之助さんが男子チームを作り、男女のトップチームや育成組織を持つクラブとして拡大させています」
男子チームは現在、「ジョイフル本田つくばFC」として関東サッカーリーグ1部で戦い、女子チームは今季、なでしこリーグ2部で戦う。一方、筑波大学女子サッカーチームは、2005年に大学公認の女子サッカー部に昇格。昨年は関東大学女子サッカーリーグで2位と、関東でも強豪の仲間入りを果たした。
「そうやってチームが発展していってくれるのは、すごく嬉しいことですね」と、小林さんは表情を和らげた。
【語学力とコミュニケーション力で切り拓いたキャリア】
道を切り開いていく小林さんの行動力は、とどまるところを知らなかった。93年以降は、多くの女子サッカー選手にもアメリカの環境を経験してほしいと、海外女子サッカーツアーを始めた。そしてこれまでに500人以上の女子選手が参加したという。2002年以降はアメリカへの大学サッカー留学もサポートするようになり、留学を経て、なでしこリーグや代表で活躍した選手もいる。
自身は筑波大やつくばFCでコーチ業を続ける傍ら、92年にJリーグが始まって以降は、スポーツメーカーやJリーグクラブの通訳をはじめ、交渉ごとも数多くこなした。その柔軟なコミュニケーションスキルや、自分が好きなことや大事だと思うことは妥協せず、行動に移す姿勢が仕事の幅を広げていく。
「通訳の仕事はたくさんありましたし、当時はバブル景気真っただ中だったので、サッカーを教えながら好きなことをしていましたね。女子W杯は91年の第一回大会から、男子は98年大会から毎回現地に行っています。元々は好きで行っていたのですが、日本女子代表で一時的に主務(練習、食事、移動、などの準備や現場の活動をサポートする)を務めました。99年の女子W杯アメリカ大会の時に、ニューヨーク会場でボランティアをした縁でFIFAの通訳の仕事を手伝って以来、FIFAにも知り合いができましたね」
2002年の日韓ワールドカップでは鹿島会場でFIFAの通訳をこなし、翌年からはJFA女子プロジェクトを立ち上げ、インストラクターとして全国を回って裾野の拡大に努めた。
八鍬さんが始めたスポーツ選手の派遣会社で、現役アスリートに対するキャリアサポートの活動を手伝っていた時期もある。また、指導者としても向上心を持ち続け、B級指導者ライセンスを取得。AFCマッチコミッショナーなど、国際大会の運営責任者も務めた。
国際大会を取材中、筆者も現地で小林さんを何度か見かけたことがある。スマートに着こなしたスーツ姿で、各国代表チームが通るエリアでVIPと話をしていたこともあれば、華やかな応援グッズをまとって他国のサポーターとスタンドで盛り上がっている姿も見かけた。様々な顔を使い分けながら、仕事に力を尽くし、プライベートでも心から大会を楽しんでいる小林さんは、とても眩しく映った。
そして、2011年からはジェフレディースで、コーチやマネージャーの立場からクラブの発展に尽力した。移籍や引退後のサポートなど、選手にも近い立場で接してきた。また、ジェフレディース出身の選手からコーチを積極的に採用し、今は女性指導者が占める割合は50%になった。
昨年、JFAが作成した女子サッカー選手のキャリアについての冊子、『サッカー×キャリア×未来~Your Life with Football~』のなかで、小林さんは自身のキャリアをこんな言葉で振り返っている。
「私は、サッカーをするために、食いつないでいましたから。最初は、仕事にするほどの指導力や競技力もないし、迷いもありました。 でも、フルタイムでサッカーに関わったからこそ、組織の仕事や大会に携わったり、いろいろなことができました。サッカーで食べていけることが当たり前ではないし、仕事を持ちながらボランティアでやっている人たちがいることを忘れないようにしています。女子サッカーはそういう人たちに支えられてきましたから」
19年5月に、FIFAが作成した日本女子サッカーのドキュメンタリーのなかで、小林さんは日本女子サッカー界が辿ってきた30年間を端的に語っている。
バブル景気の影響で多くの企業が支援する実業団チームが生まれ、外国人選手も国内リーグで競演した華やかな90年代から、バブル崩壊でリーグが消滅の危機に直面した時代を経て、女子サッカーの灯を繋いだ選手たちのバトンが、2011年のW杯で日本を世界一へと導いたこと。そして、それを機に少女たちがプレーできる環境が増えたことーー。草の根から女子サッカーを支えてきた小林さんが見てきた世界が、流暢な英語に込められていた。
【WEリーグで実現したい世界】
新しく理事に就任したWEリーグでは、「理念推進部長」として、プロになる選手たちを様々な角度からサポートしていく。リーグの理念を体現するための心構えや活動を伝え、選手たちの疑問や不安は解決できるように、リーグと選手を繋ぐ調整役にもなる。「選手たちと向き合って、いろいろなことをしっかりと話せる関係になりたいなと思います」と、小林さんは言葉に力を込める。
得意な英語や行動力で、愛するサッカーでキャリアを切り拓いてきた小林さんの考え方は、現役の選手たちにも刺激を与えるのではないだろうか。最後に、WEリーグが作る未来のイメージを聞くと、こんな答えが返ってきた。
「日本がW杯で優勝した2011年のような熱狂が再び生まれてほしいという願いもありますし、女の子たちが目指す夢や職業ランキングの上位に、『女子プロサッカー選手』が入るようになったら嬉しいですね。200万人近い選手がプレーしているアメリカに比べてまだ日本では競技人口が少ない(5万人前後)ですし、「サッカーをやりたい」と思った女の子、女性が気軽にプレーできるような環境を作りたいとも思っています。そういう時がくれば、性別や社会通念に囚われず、一人ひとりが輝ける社会になると思いますし、WEリーグが目標とする「女性活躍社会の牽引」の実現にも近づくと思います。女子サッカーがそのアイコンになればいいなと思っています」
小林さんが描く未来図は、実現不可能な夢ではないはずだ。
(※)インタビューは、オンライン会議ツール「Zoom」で行いました。
「3つのビジョンからブレずに進めていきたい」。小林さんインタビュー
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